トップナンバーアルバム

須坂駅で停車中のモハ101+モハニ131編成です。非貫通なので影響はないと思いますが連結面側に荷物室がありました。
また須坂駅は貨物を取り扱いしており後ろに貨車が見えます。                    1975年7月14日 須坂駅



 高校1年で同級生になって以来の友人だったM・Nがくも膜下に倒れて6年が経ちました。 7回忌となる今月は彼のネガから長野電鉄2題をT・Oの解説でご覧ください。
 この写真が撮影された日、私はゼミ合宿から開放され上越線沿線にいました (「だるまさん」峠のバス停)が、 この時期は「私鉄電車のアルバム」の取材が続き、夏休みに2度も3度も大阪や名古屋に出かけたことが思い出されます。 M・Nは取材の往路に長野へ寄ったのかもしれません。 (2011年2月 H・T)

 2005年2月3日に阪急大好き人間だったM・Nが逝ってから早いもので今年7回忌をむかえることとなりました。 そこで今月はM・Nが残したネガからトップナンバーを掲載します。
 M・Nが1975年(昭和50年)7月14日に撮った長野電鉄のモハ101です。 私たちは大学2年生でこの年の夏合宿は7月29日から大分県湯布院で行われました。 時間的に合宿前に長野に立ち寄るのは早すぎたのか、ネガを見ると彼は長野へ行った後、 例によって阪急を撮ってから一旦帰京しています。 確か記憶では九州へ行くときにも阪急に立ち寄っていますので彼の阪急に対する想い入れが今でも伝わってきます。
 さて、長野電鉄のモハ101は1926年(大正15年)に須坂〜権堂間の開業に合わせ汽車製造株式会社(後に川崎重工が吸収合併) で2両製造された内のトップです。半鋼製車で運転席が中央にありました。 当時は100形でしたが1953年(昭和28年)に形式見直しで電装機器が同じだったモハニ130形を含め100系とされました。 長野駅地下化のため東急から5000系が譲渡され1977年(昭和52年)に廃車されました。
 1975年というとチョット前という感じを持っていたのですが、この写真を見るとやはり一昔前(二昔前?)ですね。 (2011年2月 T・O)


湯田中駅に停車中のモハニ231+モハ201編成。残念ながら200系トップのモハ201はモハニ231の後ろに隠れています。 200系は100系と外観は同じですが制御方式が100系のHL式(手動進段・架線電源式)に対して、 HB式(手動進段・補助電源式)にしたことで別形式となっています。
当時の湯田中駅は2面2線でしたが、今は1面1線に改良されています。     1975年7月14日 湯田中駅